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高の証

高エーデルホフメニュー

「証」アップが遅くなってすみません。。。
この証は2005年、足寄教会礼拝にて信仰を証しする奉仕をさせていただいたときの原稿です。

写真は遺影の写真(前々回にアップ)のちょっと前…
サンドイッチメニューを真剣に長時間かけて選んでいる姿です^^ (クリックで大きくなります)




『 病を経て得た信仰 』
                                   日本メノナイト グレースキリスト教会  高



この世は目に見えるものだけで成り立っているのであろうか

 現実生活の課題に追われる毎日の中で、それらで頭が一杯になる生活。ごくごく一般的な生活様態とも言える。長らく生き続けることを前提とした希望や願望を抱きながら。しかし、病は肉体的な苦しみとともに、それらと遠く離れることとなる精神的な敗北感を与えてくれた。
 だが、この世は目に見えるものだけで成り立っているのであろうか。目に見えるもののみを信じ、それらに執着する生き方に、果たして救いがあるのか。

肉体とは何か

 肉体は土塊(つちくれ)で人間のおもうようにはならず、肉体は滅び、人は死ぬもの。何が一番大切か、この世に執着すること、肉体に執着することか。この世のモノはあの世に持って行くことは出来ない。
『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう』(ヨブ記1章21節)

神の愛により自己放棄

 自分にとって重大なことは、キリスト教の考え方を知ることにより、敗北感がそうではなくなった。ということ。信仰は神の恵みと愛によって自己を放棄するときに成立する、(パウロ)とある。
 勝利への道は敗北の道を通り、力を得るには自分の無能を認めることにある、と教えられた。
 神との関わり方が自己放棄にある、それにより、神が与える恵みを受け取ることができる。
この考え方、信仰は自分自身の気持ちを立て直してくれた。
 このことを知ることにより、この世で様々な欲求を満たし、その先にあると思われる平安をいつか得よう、という道とは全く異なる新たな道を示された。自分の力ではなく、神から一方的にいただく恵みをただひたすら受け取る。人に頼まず、神により頼み、他人に勝ることを求め続けるのではなく、静かに神の国、神の義を求める生活。そのように生きるのであれば大いに救われる。

死にも希望があることを知る

 キリスト教においては死にも希望がある。私自身も病にあることが特別なことではないように思えてくる。イエスの復活の恵みに立脚する安堵なのであろうか。キリストは苦しみや恐れを引き受けてくれる。主にゆだねることができる。どんなときもキリストがともにいてくれると感じることのできる喜び、平安、勇気、希望、これらを与えてくれたことが神からいただいた大きな恵み。
『死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私とともにいてくださる』(詩篇23編)
 苦難とともにある希望、さらに苦難の向こうにある希望を見いだすことができる。
 希望のない苦難とは大いに違うのではないか。

人の考えに勝る神の平安

 心は無防備に様々なことにさらされている。しかし、この世の言葉一言一言にネガティブにならず、聖書の言葉、神の御言葉を心に入れよう。心を神の言葉で満たすことを目指したい。
 すると御言葉から命や薬や静けさが心に流れ出てくると信じる。私の心の入り口に神の平安という番兵がいつも立ってくれる。神の御言葉にかけることにしたい。御言葉を溢れんばかりに心に蓄えなければならない、と思っている。

人の言葉や現実よりも、さらに大きな真理

 静かに神と向き合い、神からのメッセージに注意深く耳を傾ける、そうすると与えられている豊かな恵みに気がつく、というのは素晴らしいこと。それをめざしたい。

コリント人への手紙第二、6章1~2節
 『私たちはまた、神の協力者としてあなた方に勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら「恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や恵みの時、今こそ救いの日。』 








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高は平成14年の4月に、左脇腹の痛みで胃腸科を受診。
その時すでに「ガンかもしれない」と言われました。
下行結腸がすでに閉塞ぎりぎりに腫れあがっており「いずれにせよ手術が必要だが、ここでは手術ができないし精密な検査もできない…」とのことで、他の総合病院を紹介されました。
しかし、外来にかかったもののベッドに空きがなく、痛みは薬で散らしたためそれから入院まで約半月おかれました。 

その間、彼は通常通りに仕事に行きましたが、夜遅くベロベロに酔って帰ってきて
「Oっちゃん、俺はガンで死ぬかもしれん。死ぬんだ。これからどうなるんだ。俺はどうなるんだ。怖いよ、Oっちゃん。。。」と
私に崩れるように倒れかかり、泣き出したこともありました。
酔わなくても、思いは同じでした。

翌月5/1に入院して5/3~5にGWで一時帰宅、
5/5は日曜でしたので礼拝に誘い一緒に行きました。

その時の牧師のメッセージが「死は終わりではない」という内容でした。
私は『こんな時にまたなんていうメッセージだろう!高がかわいそう…』と思いましたが
それは愚かな人間の思いであって、
神は、高の飢え乾きをご存じで、まっすぐ応えられ、ご自身に導かれました。

高にとって、そのメッセージは死からの救い。永遠の命に至る「神からの約束」そのものでした。
礼拝後、居残っていた兄弟姉妹がまだたくさんいる中、いきなり牧師に切り出します。

「洗礼を受けたいのですが…今日でもいいでしょうか?」
「もちろんですとも!」

その日高は洗礼を受けました。
礼拝には以前から顔を出していましたが聖書のことはよくわかっていませんでした。
しかし、大事なのは主の霊です。主の霊が動き、「時」だったのですね。
勉強会はその後病院に牧師が足繁く通ってくださいました。


高はこの証そのままに生きました。
そして最後まで病も癒されると信じていました。
日記にはすさまじいほどの前向きさが召される3日前の23日までつづられています。
この頃の痩せた顔を見たら、誰もが「信じられない…」と言うと思いますよ。
しかし、「癒す主」を信じていたからこそ、心を病まずに前向きにいられたのだとも思います。


「インナーヒーリング」
高が召されてちょうど1週間の礼拝のあと、牧師が言いました。
「私の若い頃はこのインナーヒーリングという言葉が流行っていたころでした。
人には内と外があり、外側の肉体だけが癒しではなく、内なる自己の癒しが必要であるとさかんに言われていました。
高ちゃんはそういう意味で、いつも主からインナーヒーリングを受けていましたね。
とんでもない痛みの中で、心も痛む中で、仕事に向かう熱意、音楽を続けようという熱意、山も同様でした。
毎日内側を癒されていなければあり得ないことです」


本当にそうだなと思いました。

高は結局外側を癒いていただけませんでしたが、しかし高と私は神癒があることを知っていました。
でもそれは神のなさること。
人は大胆に求めることを赦されていますが、結果は(どちらにしても)謙虚にいただくことしかできません。


そして、高のあまりに安らかな、また恵まれた死は、
神の存在を信じて委ねた高の信仰と、憐れみ慈しみ愛してくださった神…なくしてあり得ないと、
あらためて私を勇気づけてくれています。

「たとえ死の陰の谷を行こうともわたしはわざわいを恐れません」

『のたれ死んでも大丈夫なんだ!』と、まったく幸せな高の死を前にして私は思ったのです。
神がいてくださるんだ。大丈夫なんだって。


前夜式の前に私は最後に喪主挨拶を求められ、泣いてできないだろうと思っていたら全然泣いてなくて^^;
ご挨拶いたしました。
その中で「死とは青虫が蝶になるのに似ている」と言った釧路の牧師の話を引用させていただきました。

青虫は蝶になるのに蝶になるのを知らず、ただ青虫生活を送っているのです。
つらかったり満足したりしながら。。。
でも神様の時に蝶になり、それは青虫にとっては死です。
私たちはもう少しこの世で青虫生活を続けなければなりません。
葉っぱを食べながら。。。神様の時にちゃんと蝶になれるのです。しかももう死はありません。

葉っぱを与えてくださるのも神なら、雨風天敵も神の摂理。(これは言ってないな^^;)
でもいつも自分の存在の創り主がいることを知っていたら、試練が多くても高みたいに生きられるんだな…と思って。。。


高は病気とは向き合わなかったですね~。
自分らしく生きることだけいつも目指していました!

彼のガンはすごくたちの悪い低分化とか未分化とかいうタイプでした。
「他の人の2~3倍生きてこられたのではないでしょうか?」と医大の主治医に言われましたよ。

外側は癒されなかった…と言ったら、これは神様に失礼なのかもしれませんね。。。

でもね、寝たきりの青虫でも充分だから一緒にいたかった。。。もう少し体を大切にしてほしかったよ。。。


でも、あともう少し。。。私も蝶々になる。
天国に行ってあえたとき、ほめられるよう青虫やる。ダイジョブさ。
主がおられる。大丈夫。


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